輪るピングドラム
*以下は輪るピングドラムの感想ですので、鑑賞した後にご覧ください
荻野目苹果のストーカーから始まり、秘密結社(というよりも幽霊)との闘争を経て、世界線の乗り換え、ピングドラムの獲得へと至る本作
輪るピングドラムは、例えばこどもブロイラーなどのような抽象的なパートが多々あり、最終的には世界線の乗り換えという超常現象によって物語が終結します
ですから本作を鑑賞する上で、現実とすり合わせて論理的整合性を求めることには、あまり意味がないと考えます
ただ一点、非常に分かりやすかったのは、作中1995年に起きた地下鉄でのテロ事件です
加害者家族と被害者遺族が主軸となる本作は、いわば作中で起きたテロ事件の後日談であるともいえます
作品の主題は、形こそ様々でしたが、一貫して「愛」でした
その愛はパートごとに、荻野目家の家族愛であったり、高倉家の兄妹(?)愛であったり、荻野目桃果への愛であったり、夏芽家の姉弟愛であったりしました
私は、世界の人々を2つに別けるなら、それは「人」と「獣」だと考えています
これは、自分のことしか愛せない「獣」と、他者を愛せる・誰かのために死ねる、愛を知った「人」という対比です
便宜上、分かりやすい言葉を使っているだけで、私には人でない動物を差別する意図はありません
動物にだって愛情はあるでしょうし、なかには自己犠牲もあるでしょう
これは私の持論ですが、人間は、自分で考えているほど高等な生き物ではない
手先の器用さという一点において他の動物を凌駕していますが、その精神性という意味合いでは、他の動物と大差があるとは思っていません
ゴリラに手話を教え、死について訊ねたところ「暗い穴の中に落ちていく」と表現したという研究結果もあります
もしかしたら神すら人間に固有のものではなく、彼ら彼女ら動物たちも神を信仰しているのかもしれません
さて、そろそろ話を本筋に戻しましょう
本作の登場人物は「人」ばかりでした
妹のために、家族のために、桃果のために、兄弟のために、我が身をなげうって行動しています
多蕗桂樹は唯一、高倉家への復讐を試みますが、それを取りやめます
愛というのは、人が人になる前から連綿と繰り返され、継がれてきた衝動です
これを主題とする限り、2000年前の人類にも、2000年後の人類にも通用するでしょう
人が愛に飽きたのであれば、もう人は、種として存続しないでしょうから
最終的には、高倉冠葉は高倉陽毬のために、高倉晶馬は荻野目苹果のために、どちらも世界から消え、人々の記憶からも消えてしまいます
言うなれば、これは喜劇仕立ての悲劇であったのです
しかし救いがないわけではなく、高倉陽毬・荻野目苹果の両名は、平和に暮らしています
高倉陽毬の難病がどうなったのか説明がないので、その点については不明です
高倉冠葉・晶馬は、さながら宮沢賢治の銀河鉄道に乗ったかのように、どこかへ旅立ってしまいます
けれども、彼らが命を賭してでも守りたかったものは守られました
輪るピングドラムは、不思議な読後感が残る作品でした
綺麗事だけではない愛の物語で、私は特に、高倉晶馬と荻野目苹果の2人組が好きですね
アニメーションの鑑賞において、今のところ外れていない法則は「やくしまるえつこに外れなし」です
今回も、記録の更新となりました
以上、ご清覧ありがとうございました
ご意見・ご感想をいただければ幸いです